[2004/04/13]エースをねらえ!とモータースポーツ

ここんところ、キムタク主演の話題ドラマ「プライド」(アイスホッケーが舞台)だの、名作マンガの実写版「エースをねらえ!」なんてドラマが相次いだ。
(何年後かに読むと、“ああ、そんなのもあったねぇ!”などと思うのであろうなぁ)
「プライド」の方は果たして「スポ根」と呼んでいいのか微妙なところだけど、「エースをねらえ!」はもともと少女漫画系でありながら、「巨人の星」に勝るとも劣らない立派な「スポ根」モノの代表格である。

「スポ根」というと、近年では「スポコン=スポーツコンパクト」というジャンルのクルマを指すらしいが、ここで言う「スポ根」とは「スポーツ根性モノ」という意味である。
だいたいからして、僕の昔の姿を知っている人は、僕がこの手のドラマを話題にすること自体に驚くと思う(笑)。
若いころは、なんつーかこう、やっぱり少しつっぱってたというか、「そんな型にはめられたようなドラマで感動なんてしないんだよオレ様は!」って思ってた部分があったから、まず見ようともしなかった。今でもそういう冷めた部分はあるけど、人間、歳を重ねると若いころとは違う部分で「いろいろ知りたい」と思うものなのであるよ。

もう、明らかに「ここで視聴者に涙流させよう」「感動させよう」っていう、製作者側の意図をカンペキに透かして見ながら、あえて感動に浸る・・・みたいな高度な所業も可能になったり。

まぁそんなこんなで、「なんでこれが開局45周年記念ドラマなの?」と首を捻る向きも多い「エースをねらえ!」実写版ドラマではあるが、これがなかなか原作をよく読みこんでいるようで侮れない。当然端折りも多いけど、エッセンスをうまいこと抽出してある。
僕は最初興味半分で見てみたんだけど、ヤバイことにちょっとハマってしまった(笑)。

スポ根モノというのは、
「くだらない!」って思うと果てしなくくだらなくて、論評の対象にもならないのだが、
「いいじゃん♪」って思うと、そこから得られるものがそれなりにある。

「プライド」のアイスホッケーは「チーム」ゲームなので、もともと集団競技が苦手な僕には、正直言ってあんまり共感する部分がない。集団競技は、“いい時”は連帯感に包まれるけど、ダメなときは互いの失敗でいたたまれない気持ちになる。これが僕には耐えられないのだ。
ま、これはそのうち別の機会に。

しかし「エースをねらえ」の場合、単独プレイヤーによるゲームという点で、特にメンタリティー部分で共感するところが多い。

モータースポーツって、外からみると
「だって結局ドライバーっつったってクルマを運転するだけでしょ。勝負ってクルマの差で決まるんじゃないの?」
てな風に見えると思う。僕もそう思っていた。

普通の道を普通に走る分には、たしかにこれは正解といえる。
そのクルマの限界内で走る分には、限界までのマージンが高いクルマ、つまり高性能なクルマの方が速く走りやすい。街中や交差点を、限界ギリギリで走るなんて局面はほとんどあるわけがないのだから、普通の人にとっては高性能なクルマに乗っていれば速い・・・というのは、ごく当たり前の感覚だと思う。

だけど、「レジャー」から「スポーツ」になった時点で、まったく観点が変わってくる・・・というモノはある。

モータースポーツが、モーター「スポーツ」と、なぜ呼ばれるか、それはやって見ればすぐに分かる。
結局、道具としてバットを使うかラケットを使うかクラブを使うか、ボールを自在に操る・・・ということと、道具として自動車を使ってタイムを出す・・・ということと、本質的にはなにも変わらないということが分かる。

バットとかラケットとかクラブとかボールは、自動車のように構造が複雑じゃないから、モータースポーツとは別物だ、という人もあるだろう。
しかし、人間の能力によって道具に「操作」という「入力」を与え、その結果ボールを打つとか受けるという「出力」を得る・・・という図式は何ら変わらない。

自動車だってひとつひとつの部品は単純な構造なのだ。
その単純な部品が、人間が出せる仕事量の何十倍、何百倍という出力を得るという目的で複雑に組み合わさっているだけで、「操作」という人間が行った入力に比例した以外の出力は、絶対に得られない。
ラケットやクラブをうまく操作しないと、ボールが真っ直ぐにすら飛ばない、というのと同じだ。人間の操作という入力があって、それに比例した出力が得られる。

つまり、間に介在する道具の構造が複雑であるかそうでないかの違いだけで、球技なら点数、モータースポーツならタイムを競うのは、道具ではなくてそれを操る人間なんである。

モータースポーツでタイムを出すためには、自動車を寸分たがわず理想的に運転する必要がある。
その操作を行うためには、自分の感覚を磨き、手と脚を自分の意思で精密にコントロールして、入力を自動車に与えなければならない。
テニスだってゴルフだって、正確にボールをコントロールするということは、結局は自分の体を正確にコントロールすることなのだ。

感覚を磨き、自分の体をコントロールするためには、トレーニングが必要になる。
でもって、その技術を常に発揮するためには、それに必要な精神力、メンタルトレーニングも必要になる。
なんら他のスポーツと変わらない。
これはやってみればすぐに分かる。
だから「モータースポーツ」と呼ばれるのだ。

だから

「コートでは誰でもひとりなんだ!」

「普段の練習だけが、お前を支える。」

「より高く飛ぶためには、より低くかがまなければならない。」

「鳥が飛べるのは、自分が飛べると信じて疑わないからだ。」

「自分が強いと信じる限り、可能性に限界はない。」

などという、最近じゃぁくさくて耳にする機会もなくなった言葉を今更聞くと、ハッとすることが多いのである。

ただ僕は、「努力することが美徳」というような、いかにも平和ボケ的発想は持っていない。
僕はスポーツを競技としてやっている以上、大事なのは「結果」だと思っている。
「結果」がなくても「頑張ったんだから」という「プロセス」だけを評価するような考えは、競技に関しては僕は持ち合わせていない。
「プロセス」が評価されるのは、「結果」が出たときに、その結果を出すためにプロセスが正しかった・・・という点においてのみである。

しかし、「正しい結果」を得るためにやるべき「正しいプロセス」のセオリーというのは存在する。

それが上に記したような言葉たちで表現されているのだろう。

そして、これらのプロセスを積み重ねることで、いつかは「結果」を出すことができると信じて努力する姿は、こはこれでやはり美しいと思うのである。
そこに感動する「ポイント」がある。
矛盾することを言っているようだが、テキトーなプロセスを経て妥当な結果しか得られなかったのに、そのテキトーなプロセスをもって「頑張った」と言いたがるようなヤツと、結果が欲しくて選んだプロセスを必死に積み重ねている姿とは、そりゃぁ違うでしょうと言う話だ。

まぁこの手の量産型ドラマにいちいちつきあってそのたんびに本気で感動していたら、「感動」という感覚がどんどん希釈されて、そのうち本当の感動が何なのか分からなくなってしまいそうな気もする。とはいえ、今回の「エースをねらえ!」は、昨今の日本が忘れている「ひたむきさ」を思い起こさせてくれた点で、実に新鮮だった。
ドラマの質という点では論評に値しないほど情けないものだけど、原作が持っている普遍性ゆえに、伝わるべきことは伝わっていた。

日々の自分を振りかえっても、どんどんやすきに流れそうになったら、この感動がきっと軌道修正してくれるに違いない。

でもこの原作・・・・すでに30年前のシロモノなんだよ!?


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